雨が好き、晴れが嫌い
私は一応サラリーマンをしているのだが、オフィスの外がどんよりしていると、仕事に集中できる。
逆に晴れているとやる気が出ない。
みなさんは晴れと雨どちらが好きだろうか。
私は雨の方が好きだ。
私の勝手な感性だが、雨の日の雰囲気ってなんだか落ち着かない?
なんだか世の中が一休みしているみたいでゆったりとした気分になる。
雨の音もなんだか癒される。
学生のころ雨が降ると体育が中止になるのが嬉しくてたまらなかった。
体育ってめんどくさいしね。
体育のある日は「雨降れ~、雨降れ~」って雨乞いしていたことを思い出す。
晴れはなんだか世の中が活動的でなんだかセカセカしている雰囲気があり、あまり好きではない。
しかし、世の中の常識では晴れより雨の方が好きと言うと、こいつ暗い奴だとか、変わり者なんじゃないのという目で見られてしまう。
だからなかなか堂々と「雨が好きです」と言えるものではない。
一般的に「天気が良い」と言えば晴れのことを指し、「天気が悪い」と言えば雨のことを指すが、私はこの良い悪いに納得できない。
何故雨は悪いのか?
雨が降らなければ死ぬぜ?
このように、天気だけ取ってみても「良い」「悪い」と表現して、雨が好きなやつは頭のおかしな奴だとして、自分の意見を押し殺されているのだ。
さらに洗脳されて本当は雨が好きなのに、雨が嫌いと思い込まされている奴もいるだろう。
子供のころ、雨の中で楽しくはしゃいだ記憶を思い出してほしい。
深夜の就業を原則禁止する法律を制定するといいんじゃない
過剰サービスの中でアホみたいにクソあわただしく生きている日本人であるが、深夜の労働って本当に必要だろうか。
病院や救助などの命にかかわる仕事は、必要かもしれないがそれ以外の仕事は深夜にやる必要はない。
日本は資本主義の競争社会なので、会社はアホみたいに24時間365日稼働しようとするが、これは過剰な生産やサービスを生み、必ずしも必要でないものやサービスを顧客を洗脳して売りつけているに過ぎない。
そこで、私は政府が以下のことをすると日本は住み易い国になるのではないかと考える。
- 午後11時~午前7時の深夜労働を原則禁止する。(昔の7-ELEVENと一緒)
- 残業時間は基本給の2倍の賃金とする。(っていうか原則残業禁止)
- 最低賃金を引き上げする。(残業代なくなると生活できない人が多そうなので)
上記を適用することで深夜の分だけ、生産性は明らかに低下する。
しかし、サービスが過剰にならない分、物の価値が上がり価格競争が緩和されるため、安部様がしようとしているマイルドインフレに自然になるのではないかと考える。
また、残業に大きなペナルティをかけることで仕事のシェアをするようになる。
今まで1日2時間残業していた人が4人いれば、その人たちの残業時間8時間をカットして他の人を雇うようになるので、雇用拡大にもつながる。
そして、最低賃金の引き上げだが、これは必須だ。
今でも苦しいのに賃金を上げてくれる会社はなかなかないが、ここはクソくだらないことばかりに税金をつかっている政府がなんとかしろ!
過剰な競争をしている現代の日本では上記のルールを適用してもっとゆっくりとした時間が流れる国になってもらいたいと思っているし、上記のことが本当に日本を良くするかどうかなんてやってみないと分からないが、このくらいの改革をしないと日本は変わらない。
座して死を待つだけだ。
子供が欲しいなら覚悟しろ
アベノミクスだかなんだか知らないが小手先の経済改革を行っているようだが、私の見解では日本が良くなる可能性は極めて低いとみている。
先細りする日本社会で子供を生むということは、ジジイやババアだけではなく現代の若者のツケもこれから生まれてくる子供たちに押しつけるということだ。
今の若者も夢や希望を持ち辛くなっているが、これから生まれてくる子供たちはもっとひどい環境になるであろう。
私みたいなキチガイでも一応守るべき家族がいる。
妻と幼い娘、そして愛犬の生活を支えるために毎日行きたくもない会社に行って一応頑張っているつもりだ。
しかし、頑張っても報われないのが現代社会である。
私の頑張りが足りないのかもしれないが、毎日深夜まで働いても一向に生活は改善しない。
保育園は預ける時間も限られているし、子供が熱が出ると「迎えにこい」と電話がかかってくる。
妻もパートを頑張ってもらっているのだが、フルタイムでの就業は絶対に無理だ。
このままではお金をためることができない。
娘が学校へ行くようになったら確実に赤字だ。
今のままでは今のままなので、最近は実家に帰る計画を練っている。
今、正社員を辞めれば今後、正社員として再就職することは難しいだろうが、非正規であればなんとか職にありつけそうだ。
試算してみたが、実家に帰って非正規で働く方がなんと貯金ができる。
娘と過ごす時間も増える。
両親も健在なので、妻も働ける。
現代社会では、私のようにアホで特技もないヤツは、常に最善を考えて行動しなければすぐに淘汰されてしまう。
娘の世代になるともっとこの淘汰が激しくなるだろう。
だから娘には英語で会話できるスキルと、なるべく多くのお金を残せるようにしたい。
娘の意思もあるが、娘が日本を脱出したいと思うのであればそれをサポートしたいからだ。
とにかく、これから子供を作るのであれば、今後の日本は先細りしていくということを認識して、子供が幸せになり得る最善を尽くすことを覚悟しなければならない。
「学校卒業したら自殺しま~す」人生離れする若者たち
日本の若者の自殺率が、他の先進国と比べて高い。
日本の若者(15~39歳)の死因は自殺が一番多いのだ。
特に20代の死因の5割以上は自殺なのだ。
これに比べて50代の自殺率が減っているので、全体の自殺者数は減少している。
詳しい数字は自分でググって調べてくれ。
夢や希望のない日本でも、50代はあと10年~15年なんとか粘ればそれなりの年金生活が送れるという希望が自殺率を減らしているのだろう。
しかし、20代は夢や希望のない日本であと何十年も無駄な努力を続けていかなければならず、生きていくことをあきらめて自殺していく。
私は個人的に、自殺はいけないもであるとは思っていない。
むしろ、死にたいと思って死ねる奴は尊敬に値する。
人間も生物である以上、死の恐怖はある。
この死の恐怖を乗り切って自殺できるということは、神を超えたということだ。
多くの人は臆病で死ぬのが怖いし、痛いのがいやなので死にたいと思ってもなかなか死ねない。
たぶん一生保留するだろう。
どうせ誰にでも死はやってくるのだ。
保留するのもいいだろう。
さて、ここで50代の自殺率が減っているという点に注目しよう。
ここから分かる事は、そう50代の奴らは若者の生き血を吸って生きているのだ。
この現実を見る限りでは、オヤジやババアが「自殺はいけない」と言っても説得力がないし、むしろお前たちが若者を殺しているのだ。
アホな大人の奇麗言を信用するな!
がんばって働いても報われない、家族も持てない、年金ももらえない夢も希望もない若者に一つだけアドバイスをしよう。
比べるな。
自殺して神を超えた人を真似る必要はない。
自殺したくても、怖ければしなければよい。
生死、収入、身長、体重、性別、偏差値、学校、会社、学歴…、他人は他人、自分は自分だ。
比べれば比べるほど、固定観念にとらわれ自分を見失い、夢も希望も持てなくなる。
こんな腐った日本でわずかな夢や希望を持つには、常識にとらわれないで自分を見失わずに自分の感性で生きるしかない。
誰になんと言われようと。
クソオヤジやババアの好きそうな商品を開発して、こいつらから逆に夢や希望を搾取する方法を考えるのも面白いのではないだろうか。
葬式はするなと遺書を書け
葬式とは死んでからも親族に迷惑をかけるくだらない儀式である。
私は死んだ後も親族に迷惑をかけたくないので、一つの遺書を書いた。
内容は、「私が死んだら葬式はしないでほしい。一番金のかからない方法で私の遺体を処分してほしい」だ。
この記事を読んでいるあなたも、思い立ったら吉日、このような遺書を書いて保管しておくとよい。
葬式と言うのもくだらない儀式である。
遺体を置いた空間に何十人も集まり、剥げたおっさんが木魚を叩きながら意味不明なお経を唱えるのを聞く。
たいして悲しくない人の嘘泣きが聞こえてくる。
そして、結構法外な料金がかかる。
税金も払わないクソ坊主や人の死を喰い物にする葬儀屋を儲けさせることはない。
「葬式」はするなと遺書を残せ!
死んだ方からすると、死んでまでこんなヤツらに儲ける機会を与える方がよっぽど悲痛だ。
こんなことを書いたが、実は私は葬式と言う儀式はあまり嫌いではない。
先ほども書いたが、遺体を前に何十人かが座る異様な空間は逆に非日常でおもしろい。
私も葬式には何回か出席したが、笑いどころが意外とあるものなのだ。
確かに大好きだったおばあちゃんやおじいちゃんが死んでしまったことは悲しくて涙したが、葬式の最中に何度も笑いで噴き出しそうになったことを覚えている。
以下は葬式で笑思わず噴き出しそうになったことだ。
- 木魚のリズムに合わせて犬が吠える。
坊主が木魚をたたくリズムに合わせて犬が「ワン」と相槌をいれる。
「ぽくぽくぽくワン、ぽくぽくぽくワン…」これがお経を唱えている間ずっと続いた。
気付いてしまった私も悪いが、笑いをこらえるに必死だった。 - 知らない親戚のおっさんが、足がしびれてガクガクして転ぶ。
- 正座をしている坊主の足の親指がモゾモゾしている。
- 坊主の頭にハエが止まる。
- 明らかに嘘泣きしているババアがいる。
他にもいろいろあるが、あの異様な空間が笑いを誘うのであろう。
笑いどころ満載の葬式であるが、とにかく法外な費用がかかるのは事実である。
死んでからも親族に迷惑をかけないようにキチンと「葬式はするな」と遺書を書け!
遺書を書かないと親族がいくら葬式をしたくなくても、世間体などの大人の事情で葬式をせざるをしなくなるのだ。
結婚式披露宴をやらなければならないという風潮
ダメ人間な私だが、人生で10回ほど結婚式披露宴に出席したことがある。
めでたいことなので言いにくいのだが、結婚式披露宴ほど金をかけたサムイ茶番劇はみたことがない。
毎回出席していて居心地が悪い。
ご祝儀30,000円も払って、知らない人と同席させられて「めでたいですねー」「よかったですねー」と言いながらひきつった笑顔で、お上品なおいしくもない料理を食べさせられる。
しかもくだらないショーがもりだくさんだ。
結婚式をやるのはまだいい。
だが披露宴をやるという風潮はやめてほしい。
これは結婚式披露宴をやらなければいけないという風潮が広まっており、出席しなければ冷酷な人だと思いこまれる、やる側と出席する側の弱みをうまくついた制度だ。
結婚式プランナーや結婚関係の雑誌や報道に情報操作でうまく洗脳されているのだ。
まず、洗脳された女は結婚式にあこがれ、見栄や自己満足のために披露宴をやりたがる。
女が洗脳されていなくて、披露宴はやらなくていいと言っても、世間体を気にする両家のご両親の誰かがほぼ必ず結婚式披露宴はやらなけらばいけないと言ってくる。
そのため、結婚式披露宴をやらなければならない確率は高い。
さて、結婚式披露宴をすると決めたら生贄が必要だ。
ご祝儀30,000円を払ってでも披露宴に出席してもらえる奇特な人を招待しなければならない。
招待された側は、断ると今後の友人関係が壊れるうえに、冷酷な人のレッテルを貼られるのでよほどの理由がない限りは出席せざるを得ない。
口では「おめでとう、絶対出席するよ」といい、心では「くだらない式でまた30,000円パアだ」と思う。
洗脳されて結婚式披露宴を「やりたい」または「やらなければならない」と思っている人がいる限りはこの悪の連鎖は断ち切れないのだ。
要するに結婚式披露宴とは、結婚式披露宴を主催する会社が新郎新婦またはその親族を洗脳して、出席が嫌と言えない参加者からご祝儀を集めて行われる高額な茶番劇である。
今後もこの茶番劇がなくなることはないだろう。
ちなみに、私は妻も両親も洗脳されておらず、海外の教会で妻と二人きりで結婚式を挙げた。
ありがたいことに妻の親が裁縫が得意で、妻のウエディングドレスまで作ってくれた。
こんなキチガイな私を受け入れてくれた妻とその両親に本当に感謝している。
最後に…、また近くに結婚式披露宴の予定がある。
結婚式披露宴のご祝儀3,000円くらいにならないかなぁと切に思う。